ヨハン・セバスティアン・バッハのフルート作品
The Face of Bach Elias Gottlob Haussmann, Version of 1748 |
楽譜
Partita in A minor, BWV 1013 (無伴奏フルートのためのパルティータ)
Violin Sonata in G minor, BWV1020, H.542.5 (Bach, Carl Philipp Emanuel)
Flute Sonata in B minor, BWV 1030
Flute Sonata in E-flat major, BWV1031, H.545 (Bach, Carl Philipp Emanuel)
Flute Sonata in A major, BWV 1032
Flute Sonata in C major, BWV 1033
Flute Sonata in E minor, BWV 1034
Flute Sonata in E major, BWV 1035
Trio Sonata in G major, BWV 1038
Trio Sonata in G major, BWV 1039
Concerto for Flute, Violin and Harpsichord in A minor, BWV 1044
Brandenburg Concerto No.4 in G major, BWV 1049 (ブランデンブルク組曲第4番)
Brandenburg Concerto No.5 in D major, BWV 1050 (ブランデンブルク組曲第5番)
Orchestral Suite No.2 in B minor, BWV 1067 (管弦楽組曲第2番)
Musikalisches Opfer, BWV 1079 (音楽の捧げもの)
経歴
ヨハン・セバスティアン・バッハ(1685年3月31日-1750年7月28日)は西洋音楽史上最も重要なされている作曲家です。アイゼナハに生まれ、1700年にリューネブルクの聖ミハエル学校で学びました。
1703年にワイマールのデューク・ヨハン・エルンスト三世の宮廷音楽家に任命されると、鍵盤楽器奏者としての評判はたちまち広がり、アルンシュタットの新教会(現在のバッハ教会)のオルガンの試奏に招待されました。
1703年8月9日に同教会のオルガニストとして採用され、後には合唱指導も担当しました。しかし、合唱の水準に不満を持っていたバッハは団員の一人を罵ったため、ある夜にゲヤーズバッハという学生に棒を持って追いかけられました。この事件はバッハをアルンシュタットでの職に関する興味を失わせる間接的なきっかけになった可能性があります。
1705年には4ヶ月間欠勤し、ドイツ北部のリューベックの高名なオルガニストであったブクステフーデを訪問しています。ブクステフーデはバッハを気に入りましたが、自身のポストの後継者とするためにはバッハより10歳年上の長女アンナ・マルグレタと結婚する条件を提示し、バッハはそれを固辞しました。
ワイマール時代
1707年4月24日、ミュールハウゼンのブラジウス教会のオルガニストのポストのオーディションを受け、7月に同教会に就任しました。同年、マリア・バルバラと結婚しました。彼女との間に生まれた子供には、後に高名な音楽家となったヴィルヘルム・フリードマン、カール・フィリップ・エマニュエル、そしてヨハン・ゴットフリート・ベルンハルトがいます。翌年、ワイマールに旅行し、ヴィルヘルム・エルンスト公爵から法廷オルガニストの地位を与えられ、1714年からは音楽監督として従事しました。
ワイマール時代のバッハは鍵盤のための重要な作品を遺しています。またイタリア人作曲家の大きな影響を受けています。
ケーテン時代
1717年、ケーテンの宮廷楽長の職を提示されたバッハは、ワイマール公に辞職を許可を得ずに承諾したため問題となり、11月6日投獄され、解任とともに12月2日に解放されました。ケーテンに移りカペルマイスターとして就任します。音楽に造詣の深かったケーテンの王子レオポルトは、バッハの才能を高く評価しました。
カルヴァン主義者であった王子の影響のもと、この地では世俗的なカンタータやブランデンブルク組曲、チェロ組曲、独奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ、平均律クラヴィーア曲集などが作曲されます。また、長男ヴィルヘルム・フリーデマンの教育のために『インベンションとシンフォニア』も作られています。
1720年7月7日バッハの妻が急逝し、カルロヴィ・ヴァリから戻ったバッハは妻がすでに埋葬されたことを知りました。翌年、16歳年下のソプラノ歌手アンナ・マグダレーナ・ウィルケに出会い、12月に結婚しました。間に生まれた13人の子供には、後に有名な音楽家となったヨハン・クリスチャンがいますが、そのほとんどが子供時代に亡くなっています。
ライプツィヒ時代
レオポルト王子のバッハの音楽に対する関心の薄れ、プロイセンの軍事併合や紛争などによる予算不足、子供の教育環境の貧弱さなどの理由により、バッハはさらに良いポストを探し求めます。
1723年、ライプツィヒのトーマス教会のカントルの地位に応募します。ゲオルク・フィリップ・テレマンなど4人の候補者の辞退により、最終的にバッハがその地位につきました。
ライプツィヒでバッハは多くの教会カンタータやミサ曲、受難曲など最も重要な声楽曲を遺しています。また、平均律クラヴィーア曲集第二巻、ゴールドベルク変奏曲、そして未完に終わったフーガの技法などの器楽曲も作曲されました。
1747年5月に、息子カール・フィリップ・エマニュエルの仕えていたポツダムのフリードリヒ大王2世のもとを訪ね、即興演奏を披露し、後に音楽の捧げものを作曲し献呈しています。この時、バッハは現代のピアノの原型であるゴットフリート・ジルバーマンのピアノを演奏しています。
1750年3月、視力の悪化していたバッハはイギリスの高名な眼科医、ジョン・テイラーに手術を受けるが失敗し悪化します。7月28日に65歳で逝去。なお、ヘンデルも同医師に手術を受け、亡くなっています。
生前、バッハは名オルガニストとして認知されており、作曲家としての評価は低いものでした。しかし、メンデルスゾーンによるマタイ受難曲の再演がきっかけとなり、作曲家としての彼の地位は揺るぎないものとして今日に至っています。
バッハのフルート作品ノート
バッハの作品の研究は現在も進行中で、特にいくつかの作品は彼の作品なのか真偽がはっきりしていません。ここではいくつかの新しい研究を基に、バッハのフルート作品に関する情報をまとめます。最新の研究では情報が変わっている可能性に留意してください。
無伴奏フルートのためのパルティータイ短調 BWV1013
成立:1718~1739年、ケーテンもしくはライプツィヒ?
バッハはチェロとヴァイオリンのための無伴奏の作品を、ケーテン時代に作曲しています。無伴奏フルートのためのパルティータも同じくらい難易度の高い曲で、同時期に作曲されたブランデンブルク協奏曲第5番や、カンタータとは明らかに難易度が異なります。
そのためアメリカの音楽学者ロバート・マーシャルによる、バッハの勤めていたケーテンの宮廷楽団のフルート奏者のために書かれた作品ではなく、バッハとも親交のあったドレスデン宮廷楽団の当代屈指のフルート奏者、ピエール・ガブリエル・ビュファルダンのために1718年頃書かれたという仮説が受けれられてきました。
最新の機器を使った年代測定によると、1725年以降、おそらく1731年頃成立したと考えられており、別の楽器からの編曲の可能性も指摘されています。※
オブリガートチェンバロとフルートのためのソナタ ト短調 BWV1020
フルートとチェンバロのためのソナタ ロ短調 BWV1030b
1736年頃書かれた作曲者本人の手による浄書譜が存在。
1729年頃書かれたと考えられるト短調の初稿が存在。
フルートとチェンバロのためのソナタ 変ホ長調 BWV1031
成立: 1725-34年?
5種類の手稿譜が存在します。1725-1733年に成立したと考えられていましたが、ドレスデンで流行していたギャラント様式で作曲されており、1740年以降に成立した可能性もあります。
フルートとチェンバロのためのソナタ イ長調 BWV1032
成立:1736年頃、ライプツィヒ
ソナタホ長調と同じくギャラント様式で作曲されており、おそらく1730年初頭の作と考えられています。第1、3楽章はイ長調ではなくハ長調だったという説は、イ長調ーイ短調ーイ長調という特殊な転調や、自筆譜の訂正箇所から推定されます。
フルートと通奏低音のためのソナタ ハ長調 BWV1033
成立:1720~1739年、ケーテンもしくはライプツィヒ
1720年に無伴奏作品として作曲され、後に17歳だったカール・フィリップ・エマニュエルの手によるパート譜に記された1731年。※
第1、2楽章で見られる通奏低音の未熟さのため、おそらくカール・フィリップ・エマニュエルの学習のために用いられた可能性があります。第3、4楽章での巧みな通奏低音は父の手によるものと推測されます。
フルートと通奏低音のためのソナタ ホ短調 BWV1034
成立:1724~1726年頃?
現代のフルートで演奏することも難しい非常に難易度の高い曲で、相当な名手のために書かれたと考えられています。おそらくケーテン時代に作曲されたと考えられていましたが、無伴奏フルートのためのパルティータと同じく、ビュフェルダンがライプツィヒに滞在したときに作曲されたという仮説もあります。
フルートと通奏低音のためのソナタ ホ長調BWV1035
成立:1741、もしくは1747年、ポツダム?
ロココ様式で書かれており、ポツダムを訪れた際に作曲されたと推測されています。自筆譜は残っていませんが、筆写譜がのこっており、タイトルにはフリードリヒの親友だった、「秘密の従者(Geheimen Kämmerier)」M.G.フレドリヒスドルフに作曲されたと書かれています。
フルート、ヴァイオリン、通奏低音のためのソナタ ト長調 BWV1038
偽作。
2本のフルートと通奏低音のためのソナタ ト長調 BWV1039
成立:1726年、ライプツィヒ
後の1742年に、ヴィオラ・ダ・ガンバとチェンバロのためのソナタBWV1027に編曲されています。
フルート、ヴァイオリン、チェンバロのための協奏曲 イ短調 BWV1044
成立:1727年以降、1738-1740年頃と推測されています。
ブランデンブルク協奏曲第5番 BWV1050
成立:1721年、ケーテン
フルートをソロ楽器として初めて用いた作品。
管弦楽組曲 第2番 ロ短調 BWV1067
成立:1738-1739年頃、ライプツィヒ
ポロネーゼはニ短調の版が存在します。BWV1067/5※
音楽の捧げもの BWV1079
成立:1747年、ライプツィヒ
1747年5月、ポツダムのフリードリヒ大王に与えられたテーマを基に、バッハはフォルテピアノで即興演奏をしました。6声のフーガ演奏も求められましたが、即興では難しかったために、後に6声のリチェルカーレを含む作品群を作曲し献呈しました。
参考:
阿部博光「ヨハン・セバスティアン・バッハのフルート作品の成立と真贋問題:J・S・バッハ没後250年を記念して」