ジークフリート・カルク=エーレルトのフルート作品


カルク=エーレルトのポートレート
LINK

楽譜


30 Caprices for Flute Solo, Op.107 (30の奇想曲)


Flute Sonata, Op.121


Impressions exotiques, Op.134 (エキゾチックな印象)


Jugend, Op.139a (青年)fl,cl,hr,pf


Sinfonische Kanzone, Op.114 (交響的カンツォーネ)


Sonata Appassionata, Op.140 (熱情ソナタ)


Suite pointillistique, Op.135 (点描画組曲)


経歴


ジークフリート・カルク・エーレルト(1877年11月21日-1933年4月9日)は、ドイツのオーベルンドルフ・アム・ネッカーで生まれた作曲家、音楽理論家、鍵盤楽器奏者です。

1882年に一家はライプツィヒに定住し、ジークフリートはそこで音楽の訓練を受けました。

ライプツィヒ音楽院では授業料を免除された奨学生として在籍し、カール・ライネッケ、アルフレッド・ライゼナウアー、ロベルト・タイヒミュラー、サロモン・ヤダソンの指導を受けました。

1901年から1年間、マグデブルクのピアノ教師となります。この頃に自身のSiegfried Kargという名前を、母親の旧姓を加えたKarg-Elertという苗字と、自身の名前をスウェーデン語のつづりでSigfridと変更しました。

ライネッケの弟子でもあったエドヴァルト・グリークの励ましもあり、ライプツィヒに戻ったのち、ピアノのための曲を積極的に作曲するようになりました。

1910年にルイーズ・クレッツシュマールと結婚。

第1次世界対戦後の1919年からライプツィヒ音楽院の音楽理論と作曲の講師になり、1932年には教授となりました。

イギリスやアメリカでの評価とは対象的に、ドイツ国内での彼の作品に対する評価は低いままでした。国際志向の強かった彼の作風と、国家社会主義の影響下にあった当時の文化的な背景が、彼の作品批判につながったと推測されます。

1932年にアメリカツアーを行いますが、すでに重度の糖尿病に苦しんでいたため失敗に終わります。

ライプツィヒに戻り1933年4月に55歳という短い生涯を閉じました。


音楽理論家として


音楽理論家としても、倍音を基礎とした独自のシステムを開発しました。

彼の理論によると、例えば異名同音ではcisはdesよりも低くなります。これは演奏家の本能的なメロディー感覚とは異なるため、今日ではほとんど鑑みられることがなくなっています。


バートゥツァットの影響


第一次世界対戦に従軍中、彼は軍楽隊でオーボエを吹いていましたが、隣りに座っていたフルートの名手カール・バートゥツァットのために書かれています。

バートゥツァットは、当時ライプツィヒのフルート界で大きな影響を与えていたマクシミリアン・シュヴェードラーの弟子でした。

シュヴェードラーはゲヴェントハウス管弦楽団の首席奏者と、ライプツィヒ音楽院の教授でした。当時興隆していたベーム式のフルートを嫌い、伝統的な円錐管のフルートを改良し独自のキーシステムを採用したレフォームフルートと命名した楽器を吹いていました。

シュヴェードラーはバートゥツァットの才能を高く評価し、自身の著作である「フルートとフルート奏法」の中にも才能のある奏者の条件として彼の身体や絶対音感について記しています。

レッスンや、師匠と一緒に演奏する時に、バートゥツァットはレフォームフルートの吹いていましたが、同時にベーム式のフルートも密かに演奏していました。

シュヴェードラーがゲヴァントハウス管弦楽団を定年で退団することになり、後任を決めるオーディションの際、バートゥツァットはベーム式フルートを持ってオーディションに現れました。

自分には投票権がなかったにもかかわらず、客席でその演奏を聴いたシュヴェードラーは激怒します。

しかし、次のラウンドにシュヴェードラーの姿はなく、バートゥツァットはベーム式のフルートでそのポジションを獲得しました。


30の奇想曲は、そんなバートゥツァットのベーム式フルートのために書かれました。バートゥツァットの素晴らしいフルートの演奏は、カルク=エーレルトの創作意欲を大いに刺激し、多数の素晴らしいフルート作品を生み出すきっかけとなりました。



Next Post Previous Post