アルテュール・オネゲルのフルート作品

 

アルテュール・オネゲルのポートレート
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楽譜


Danse de la chèvre, H.39 (牝山羊の踊り)


Concerto da camera, H.196 (フルートとコールアングレのための室内協奏曲)


経歴


アルトゥール・オネゲル(1982年3月10日-1955年11年27日)はフランスのル・アーブルで生まれた作曲家です。

スイス人の両親のもとに生まれ、幼い頃からバイオリンを習い、10代の頃には作曲をはじめました。

1909年にチューリヒ音楽院でバイオリンと音楽理論を学び、1911年からはパリ音楽院で勉強を続けました。


パリ

作曲をシャルル=マリー・ヴィドールに、指揮をヴァンサン・ダンディに習っています。

パリ音楽院時代にアンドレ・ジェダルジュの対位法のクラスでは、ダリウス・ミヨーとジャック・イベールと知り合っています。彼らとともにオネゲルはフランス六人組として世に知られました。

1918年に作曲した『世界の戯れの物語』の初演はスキャンダルを起こし、注目を集めました。

1921年、『牝山羊の踊り』が作曲されました。


名声

1923年の作品『パシフィック231』で国際的に名前が知られるようになります。

オネゲルは蒸気機関車愛好家として知られており、このパシフィック231は蒸気機関車の車軸の配置から名称をとっています。

1926年、ピアニストのアンドレ・ヴォラブールと結婚しました。

しかしオネゲルは、作曲するために孤独でいることが必要であったため、結婚後も別々のアパートで暮らしていました。

アンドレは母親と暮らし、オネゲルは昼食のたびに家を訪れていました。

1935年の作品『火刑台上のジャンヌ・ダルク』は大成功を収め、作曲家の名前を不滅のものにしました。

第二次世界対戦の間はパリで音楽評論家や、エコール・ノルマル音楽院で作曲の教師として活動しました。


晩年

1947年に自作の指揮を行なうために訪れていたニューヨークで、心疾患を患い倒れました。

4ヶ月後に回復しましたが、亡くなるまで健康に大きな影響を及ぼしました。

療養中の1948年にフルート、イングリッシュホルンのための室内協奏曲が作曲されています。

1955年、自宅で亡くなり、パリのサン・ヴァンサン墓地に埋葬されました。



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