ヨアヒム・アンデルセンのフルート作品
Von Stated as "Christensen, Amagertorv 19" - Royal Danish Library's portrait collection, Gemeinfrei, Link |
楽譜
エチュード
ソロ
Concert Piece for Flute and Orchestra(フルートとオーケストラのための演奏会用作品) Op.3
Ballade et danse des sylphes(バラードと空気の精の踊り) Op.5
モーツァルト作曲フルート協奏曲第2番ニ長調のためのカデンツァ
経歴
カール・ヨアヒム・アンデルセン(1847年4月29日-1909年5月7日)は、デンマークのコペンハーゲンで生まれたフルート奏者、指揮者、作曲家です。父のクリスチャン・ヨアヒム・アンデルセンもフルート奏者でした。
弟のViggo(彼もフルート奏者になった)と共に父からフルートの教育を受け、13歳で公式にデビューし1868年までコペンハーゲン音楽協会の第1フルート奏者を務めました。
海外での活躍
1869年にデンマーク王立管弦楽団のフルート奏者として雇われますが、1878年には海外で成功したいという希望の元に辞任、サンクトペテルブルクフィルハーモニー管弦楽団で1878年から1880年まで活動します。
1881年にベルリンに移り、王立歌劇場とビルゼッシェンオーケストラの第1フルート奏者となります。
1882年には、ベルリンフィルハーモニー管弦楽団の共同設立者となります。
その頃からソロフルーティストだけでなく、指揮者としての活動も活発になります。
作曲家として
1893年、舌が麻痺してしまいフルーティストとしての活動を断念。
アンデルセンは頑なにダブルタンギングを拒んでおり、シングルタンギングに固執したために舌を故障したと、フルーティストのレオナルド・ダ・ロレンツォは述べていますが真相はわかりません。
この時期にベルリンで火事にみまわれ、自筆譜の多くも失われてしまいました。
以後はコペンハーゲンに戻り、指揮、作曲家として活躍します。
1896年にオーケストラ学校を設立し、指揮者と指導者として務めます。
当時のデンマークでは、指揮者は観客の方を向き指揮をしていましたが、アンデルセンにより現代のようにオーケストラの団員の方向を向いて指揮をするようになりました。
1905年にデンマーク国王クリスチャン9世から騎士鉄十字章を授与されました。
晩年
晩年は自身の創立したチボリ・オーケストラの指揮者として活動しました。
指揮者としての彼の要求は、時に楽団員にとってはかなり厳しかったそうです。
1909年、オーケストラを引退し、ハレスコウの療養所に入ります。
同年5月7日に脳溢血で亡くなりました。
彼の遺骨は長年、納骨堂に預けられていましたが、1943年に共同墓地に埋葬されました。