ヨアヒム・アンデルセンのフルート作品

Von Stated as "Christensen,
Amagertorv 19" -
Royal Danish Library's portrait collection,
Gemeinfrei, 
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楽譜


エチュード


24の練習曲 Op.15


24の練習曲 Op.21


24の練習曲 Op.30


24の練習曲 Op.33


18の練習曲 Op.41


26の奇想曲 Op.37


ヴィルトーゾ教本 Op.60


24の技術的練習曲 Op.63


ソロ


Concert Piece for Flute and Orchestra(フルートとオーケストラのための演奏会用作品) Op.3


Ballade et danse des sylphes(バラードと空気の精の踊り) Op.5


Au Bord de la Mer(海辺にて)Op.9


モーツァルト作曲フルート協奏曲第2番ニ長調のためのカデンツァ


アンデルセンのその他の作品(IMSLP)


デンマーク王立図書館のアンデルセンの作品集


経歴

カール・ヨアヒム・アンデルセン(1847年4月29日-1909年5月7日)は、デンマークのコペンハーゲンで生まれたフルート奏者、指揮者、作曲家です。父のクリスチャン・ヨアヒム・アンデルセンもフルート奏者でした。

弟のViggo(彼もフルート奏者になった)と共に父からフルートの教育を受け、13歳で公式にデビューし1868年までコペンハーゲン音楽協会の第1フルート奏者を務めました。


海外での活躍

1869年にデンマーク王立管弦楽団のフルート奏者として雇われますが、1878年には海外で成功したいという希望の元に辞任、サンクトペテルブルクフィルハーモニー管弦楽団で1878年から1880年まで活動します。

1881年にベルリンに移り、王立歌劇場とビルゼッシェンオーケストラの第1フルート奏者となります。

1882年には、ベルリンフィルハーモニー管弦楽団の共同設立者となります。

その頃からソロフルーティストだけでなく、指揮者としての活動も活発になります。


作曲家として

1893年、舌が麻痺してしまいフルーティストとしての活動を断念。

アンデルセンは頑なにダブルタンギングを拒んでおり、シングルタンギングに固執したために舌を故障したと、フルーティストのレオナルド・ダ・ロレンツォは述べていますが真相はわかりません。

この時期にベルリンで火事にみまわれ、自筆譜の多くも失われてしまいました。

以後はコペンハーゲンに戻り、指揮、作曲家として活躍します。

1896年にオーケストラ学校を設立し、指揮者と指導者として務めます。

当時のデンマークでは、指揮者は観客の方を向き指揮をしていましたが、アンデルセンにより現代のようにオーケストラの団員の方向を向いて指揮をするようになりました。

1904年にパリのタファネルのクラスを訪れています。そこで演奏された自身の練習曲Op.15の第3曲を耳にし、自分がこんな素晴らしい曲を書いたと思ってもいなかったと述べています。

1905年にデンマーク国王クリスチャン9世から騎士鉄十字章を授与されました。


晩年

晩年は自身の創立したチボリ・オーケストラの指揮者として活動しました。

指揮者としての彼の要求は、時に楽団員にとってはかなり厳しかったそうです。

1909年、オーケストラを引退し、ハレスコウの療養所に入ります。

同年5月7日に脳溢血で亡くなりました。

彼の遺骨は長年、納骨堂に預けられていましたが、1943年に共同墓地に埋葬されました。



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