子供の頃の夢と、僕が音楽家になったきっかけ
有難いことに僕は音楽家として、フルートを吹くことでお金を稼いで生きています。
音楽家になったきっかけは人によって大きく違いますが、僕の場合どのようなことがきっかけでフルートを始め音楽家を目指したのか、子供時代はどう過ごしていたのかなど書いてみたいと思います。
子供時代の夢
小学生の高学年になるまではサッカーやゲーム、ヨーヨーやミニ四駆などに明け暮れ、暗くなるまで近所を遊び回っているような元気な子供でした。
小学校で先生が、皆さんは将来何になりたいですか?と質問され、「宇宙飛行士」と答えました。
おおーすげー!と同級生に言われてとても良い気分になり、それからはそのような質問をされるたびに宇宙飛行士と答えていました。
しかし、初めてディズニーランドのスペースマウンテンに行った時に、乗る前に怖くて泣いてしまい、小さい女の子に笑われたことで心に深い傷をおいました。
それからは宇宙飛行士を目指すことをやめ、サッカー選手になりたいと思うようになりました。
その頃は、音楽には全く縁のない生活を送っておりました。
唯一、将来音楽家になる兆しがあったのは、三年生の頃に音楽の授業でリコーダーを吹いたことでした。
当時は音符の読み方も全く知りませんでしたが、周りの同級生に比べ上達が早かった記憶があります。
音楽って楽しいなとその時から思うようになり、小学五年生の時に初めて近所のピアノ教室でピアノのレッスンを受けました。
音楽をはじめたきっかけには家でも両親がいつもクラシックのCDやラジオを聴いており、小さな頃から演奏会にもよく連れて行ってもらっていた影響もあるかもしれません。
ピアノを始めたは良いものの、ほとんどのピアニストはみな2~3歳の頃にはピアノを始め、僕の歳になった頃にはすでにリサイタルやオーケストラと共演するなど、ピアニストになるのは無理だろうなとすぐに思い知ります。
ある時、地元に新しく出来たばかりの文化会館に大嶋義実先生がいらっしゃり、母に連れられて演奏会に行きました。
そこで聴いたジュナンの「ヴェニスの謝肉祭」という曲がきっかけで、フルートを始めたいと言い出しフルートを買ってもらいました。
「ヴェニスの謝肉祭」の一番最後には、速いダブルタンギングで音が2重に聴こえる箇所があります。
リコーダーは単音しか出ませんが、何も知らない僕はフルートでは2重に音が出ると思い込んでしまいました。
そして実際にフルートを買ってもらって、音が2重に出ないことに大変がっかりしました。
大嶋先生の二枚舌、もといダブルタンギングにまんまと騙されてフルートを始めてしまい、後年、先生の教える京都市立芸大に通うことに、さらに数年後には先生が若かりし頃いらしたプラハに行き着くことになるとは当時知る由もありません。
これが運命というものでしょうか。
小学校六年生の終わりにサッカーのゴールキーパをやっていて鎖骨を骨折し、入院。
小学校の卒業式には出ることが出来ませんでした。
鎖骨とともにサッカー選手になるという夢も砕け散り、入院中にもう金輪際スポーツはしないと決心しました。
音楽家になるまで
中学生になってからは、どんどん音楽にのめり込みました。
地元高崎にある烏川(からすがわ)吹奏楽団という団体に所属し中国を演奏旅行したり、毎年夏に桐生で行なわれていたオーケストラのサマーキャンプに参加したりと、合奏の楽しさに目覚めます。
授業中に和声や対位法をやっていたので、学業の成績はどんどん下がっていきました。
それでも通っていたのが中高一貫校だったのと、先生が僕が音楽の道に進みたいと理解してくださり、なんとか高校を卒業することができました。
東京芸大を受験するも失敗し、再度受験してまた落ちましたが京都芸大へなんとか入学、大嶋先生にレッスンしていただけることになりました。
何となく京都芸大に流れ着きましたが、4年間先生のもとで勉強することが出来たのは本当に幸運でした。
当時先生から学んだことは、今でも音楽家として活動する上で大きな財産となっています。
その後、渡独しハンブルクで学びました。
ドイツの音大にはヨーロッパ各地はもとより、中国、ロシア、韓国、アメリカ、ブラジルなど世界中から才能ある音楽家の卵たちが集まっており、日々切磋琢磨していました。
この頃は毎日練習に明け暮れ、少しでもフルートが上達することしか考えていませんでした。
そして運良くオーケストラのオーディションに合格、いち音楽家として活動させていただいています。