カミーユ・サン=サーンスのフルート作品

 

サン=サーンスのポートレート
リンク


楽譜


Tarantelle, Op.6 (タランテラ) fl,cl,pf


Romance, Op.37 (ロマンス)


Caprice sur des airs danois et russes, Op.79, fl,ob,cl,pf


Odelette, Op.162 (オデレッテ)


Volière (大きな鳥かご)"Le carnaval des animaux(動物の謝肉祭)", fl,pf


Le cygne(白鳥)"Le carnaval des animaux(動物の謝肉祭)" タッファネル編


経歴


サン=サーンス(1835年10月9日ー1921年12月16日)は、フランスのパリに生まれた作曲家、オルガニスト、ピアニスト、指揮者です。パリ6区のジャルディネット通りで生まれ、サンシュルピス教会で洗礼を受けました。間も無くフランス内務省の役人であった父親が結核のために亡くなり、幼いカミーユは健康のためにパリの南にある町コルベイル=エソンヌで2年間を過ごしました。

3歳になる前にはパリに戻り、すでに音楽の才能を示しています。10歳の時にはサール・プレイエルで公開演奏を行ないデビュー。13歳の時にパリ音楽院に入学し、オルガン科の教授フランソワ・ブノワに師事しました。彼は平凡なオルガニストであったが教師としては一流であると、サン=サーンスは考えていました。門下生にはアドルフ・アダン、セザール・フランク、シャルル・アルカン、ジュルジュ・ビゼーなどが名を連ねています。

当時のパリでは、優秀なピアニストはより良い待遇を得るために、オルガンを専門とすることが奨励されていました。

サン=サーンスはオルガン科を最優秀で卒業後、正式に作曲の勉強をジャック・アレヴィの元で始めました。1852年にフランスの最高の音楽賞であるローマ賞の最終選考で、レオンス・コーエンに惜しくも敗れました。しかし同年、パリのソシエテ・サン・セシル主催のコンクールでは大成功を収め、満場一致で1等賞を受賞しました。

パリ音楽院卒業後


パリ音楽院卒業後の1853年に、18歳でサンメリ教会のオルガニストとして任命されました。サンメリ教会のオルガンは、著名なオルガン製作家フランソワ・アンリ・クリコ(François-Henri Clicquot)による楽器でしたが、フランス革命の際に損傷していました。不完全な修復がなされていたため、教会の礼拝には十分でしたが、リサイタルなどには適してはいませんでした。そのため、サン=サーンスは作曲家として十分な時間があり、交響曲第1番変ホ長調(1853年)が作られ、ソシエテ・サン・セシルから再び1等賞を与えられました。この頃、ロッシーニやベルリオーズ、リストに音楽家としての才能を見出されています。

1858年にはパリ8区にあるフランス帝国公式教会である、ラマドレーヌのオルガニストとなります。リストは、サン=サーンスの演奏を聴き、世界で最も偉大なオルガニストと述べました。

1861年、パリのエコール・ド・ムジーク・クラシック・エ・レリギウスで教師となります。彼の教えた生徒の中には、ガブリエル・フォーレがいました。この頃サン=サーンスは、当時の音楽スタイルの最先端であったシューマンやワーグナーなどの"現代音楽"を生徒に紹介し、保守的な同僚からはスキャンダルだと捉えられていました。

2度目のローマ賞応募


1864年、すでに有名な音楽家となっていたサン=サーンスは2度目のローマ賞に応募し、周囲を驚かせました。しかし結果は落選となり、当時まだ学生であったビクター・シーグが受賞しています。審査員だったベルリオーズは、サン=サーンスは熟練しているが、作品にはインスピレーションという内なる炎が欠けていると指摘しました。

1870-71年の普仏戦争では従軍しました。

パリコミューンの間、イギリスのロンドンの万国博覧会に参加していたため難を逃れました。パリに戻った1871年、国民音楽教会を設立し現代フランスの作曲家の作品を普及することを促進しました。しかしこれはのちに、ヴァンサン・ダンディの率いるワーグナー信奉派が多数派を占めるようになり、サン=サーンスは辞任しました。

結婚


1875年、40歳で19歳のマリー・ローレ・トリュフォと結婚し、二人の息子が生まれますが夭逝してしまいます。1881年にフランス研究所(Institut de France)に選出されました。

その年の夏、休養のためオーヴェルニュの温泉街に妻と出かけますが、ホテルから姿を消します。

数日後、妻はサン=サーンスから、もう会うことは無いという手紙を受け取りました。それ以来、二人は2度と会うことはありませんでした。

結婚生活の崩壊後は、フォーレの家族と親密になっています。

晩年


1888年12月、母親が亡くなるとうつ病と不眠症に陥り、治療のためにアルジェに滞在しました。翌年春まで、作曲ができなくなりました。

1890年代以降は多くの時間を旅行に費やしました。1896年には、サル・プレイエルでのデビュー50周年記念演奏会を開催しています。

若い頃は革新的なスタイルの作曲家と思われていたサン=サーンスですが、晩年は保守的な作曲家として扱われていました。

フランシス・プーランクやダリウス・ミヨー、クロード・ドビュッシーなどの若い世代の作曲家と対立し、またアーノルド・シェーンベルクの十二音技法を理解することもありませんでした。

1913年のストラヴィンスキーのスキャンダルを起こした『春の祭典』では、演奏会の途中で出て行ったと伝えられています。

1913年にピアニストを引退するも、翌年勃発した第一次世界大戦のために引退を撤回。
戦争慈善団体の資金調達のために活動を再開します。

1921年、インスティートでリサイタルを行なったのが86歳でした。翌月にアルジェに滞在中に心臓発作で亡くなりました。国葬され、モンパルナス墓地に埋葬されました。


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