ジュゼッペ・ガリボルディのフルート作品

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楽譜

Duos gradués pour 2 flûtes(グレード別フルート2重奏曲) Op.145


12 Etudes de Perfectionnement et de Virtuosité(12の完全で技巧的な練習曲) Op.217


L'art de préluder(前奏曲の芸術) Op.149


Fantasia cantante sur l'Africaine(アフリカの女による幻想曲) Op.67


フルートのための一番の練習曲


Méthode élémentaire pour la flûte(フルートの初歩的な教則本)


ガリボルディのその他の楽譜


経歴

 ジュゼッペ・フランセスコ・ガブリエレ・パトリツィオ・ガスパーレ・ガリボルディ(1833年3月17日-1905年4月12日)はイタリアで生まれたフルート奏者、作曲家、指揮者です。

ジュゼッペ・ダロエとドメニコ・コンコルディアにフルートを師事しました。

学校を卒業してすぐに、マルケ州の劇場のフルート奏者になりました。


政治的活動と亡命

18才の時に祖国の解放のための学生運動『若いイタリア』に参加し、自治体から名誉勲章を授与されました。しかし、その政治活動により警察に指名手配されたため、フィレンツェで知り合ったロッシーニの提案でパリに逃れます。

パリではロッシーニに支援されながら、フルートの名手、そして指揮者として活動しました。

1855年にはローマやボローニャ、フィレンツェなどの都市で演奏会を行い、高い評価を得た記録が残っています。

1856年、パリのサン・ジェルマン・アン・レー国際大学の指揮者兼教師に任命されました。

1859年、ナポレオン3世の暗殺未遂事件に関わったため3年間フランスを離れなければならず、ベルギーやオランダ、イギリス、オーストリアを訪れて演奏活動を行なっています。

1860年代にはフルートのための多くの作品が作曲されています。


普仏戦争後

1870年の普仏戦争時には赤十字のために働きました。

戦争が終わり、1871年から1895年までパリのローレン大学でフルートと作曲を教えました。

同僚や学生に愛され、ガリボルディのキャリアはピークにありました。

1880年、リスボン芸術会議に参加し、翌81年にウィーンで行なわれた会議では著作権法のために働きました。ガリボルディ自身の作品は、1884年に国際著作権に登録されています。

多くの雑誌や新聞にも寄稿し、『パリの邪悪な少年』と署名することもありました。


晩年

ガリボルディの評価はフランス国内でも高く、何度もフランス国籍をとりイタリア国籍を放棄することを求められました。

しかしイタリアへの愛着を捨てることのできなかったガリボルディは、年金の権利を放棄して1895年にフルート奏者であった妻のエルミラ・トーマスとイタリアへ戻りました。

彼のイタリアでの評価も高く、様々な手紙や作品が残されていますが資料は未公開のままになっています。

1905年4月12日に肺炎のため自宅で亡くなり、カメリーノの墓地に埋葬されました。



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