ボフスラフ・マルティヌーのフルート作品
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楽譜
Concerto for Flute, Violin, and Orchestra, H.252
Madrigal-Sonata, H.291, fl,vn,pf
Nonet (9重奏曲) No.2, H.374 , fl,ob,cl,fg,hr,vn,va,vc,cv
Sonata for Flute, Violin and Piano, H.254
経歴
ボフスラフ・マルティヌー(1890年12月8日-1959年8月28日)はチェコのポリチカで生まれた作曲家です。
7歳よりバイオリンの演奏を初め、1906年にはプラハ音楽院でバイオリンを習いますが2年後に除籍になってしまいました。
1909年からは同音楽院でオルガン科で作曲を習いますが、再び除籍になってしまいます。
それにも関わらずバイオリン教師の資格を取得して卒業しています。
1920年から1923年まで、ヴァーツラフ・ターリヒ率いるチェコ・フィルハーモニーで、第2バイオリニストとして活動します。
その頃、チェコの高名な作曲家、バイオリニストであったヨゼフ・スクに出合い、彼から作曲のレッスンを受けています。
チェコスロバキア独立後
1920年にチェコスロバキア共和国が成立し、海外へ訪れることが可能となりました。
マルティヌーは1923年に奨学金を得てパリへ移住し、アルベール・ルーセルに作曲、対位法を師事しました。
その頃のパリでは印象派は下火になり、パリ6人組やストラヴィンスキー、ジャズ音楽が盛んであり、マルティヌーもそれらの音楽から大きな影響を受けています。
アメリカへ
1938年、ミュンヘン会談ののち、マルティヌーは故郷チェコを訪れる事が出来なくなりました。
1939年のチェコスロバキアをドイツ軍が占領すると、故郷のレジスタンス部隊に加わろうとするも年齢のために拒否されました。
マルティヌーは、『野のミサ』を作曲し、イギリスで放送されたものがチェコスロバキアでも取り上げられました。
そのために、ナチスのブラックリストに自身の名が載り、ドイツ軍の侵攻にともないパリを脱出しました。指揮者シャルル・ミュンシュやチェコの高名な芸術家ルドルフ・クンデラ、バーゼル室内管弦楽団の指揮者パウル・ザッハーや外交官ミロシュ・サフラネクの手助けによりアメリカへ渡ります。
アメリカ時代には多くの困難な生活が続きました。
1946年にバークシャー音楽学校での夏期講習中、宿舎のバルコニーから転落して重症を負い、退院後も頭痛や耳鳴り、難聴に悩まされました。
プラハ音楽院から作曲科の教授として招聘されますが、実現しませんでした。
フルートのためのソナタ(1945年)はこの頃作曲されています。
その後も故郷へ戻ることを試みますが、1948年にチェコスロバキアに共産党政権が誕生したため帰国を断念しました。
晩年
晩年はヨーロッパに戻り、フランス、イタリアなどを定住せずに転々とします。
1958年に癌が見つかり、翌年8月28日にスイスのリースタルで亡くなりました。