ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトのフルート作品

 

DGA574471 Austria,
Portrait of Wolfgang Amadeus Mozart
 (1756 - 1791)
Vienna, Gesellschaft Der Musikfreunde);
De Agostini Picture Library
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楽譜


Flute and Harp Concerto in C major, K.299/297c (フルートとハープのための協奏曲)

※楽曲分析はこちらをご参照ください。


Flute Concerto in G major, K.313/285c (フルート協奏曲第1番ト長調)


Flute Concerto in D major, K.314/285d (フルート協奏曲第2番ニ長調)


Andante in C major, K.315/285e (アンダンテ)


Flute Quartet in A major, K.298 (フルート四重奏曲 イ長調)


Flute Quartet in C major, K.Anh.171/285b (フルート四重奏曲 ハ長調)


Flute Quartet in D major, K.285 (フルート四重奏曲 ニ長調)


Flute Quartet in G major, K.285a (フルート四重奏曲 ト長調)


経歴


ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(1756年1月27日-1791年12月5日)は、ザルツブルクで生まれた作曲家です。

幼少期より神童と称され、ヨーロッパ各地で演奏しました。

現存する最も初期の作品は、5歳の頃に作曲されたアンダンテ ハ長調K.1aです。

フランクフルトで7歳のモーツァルトの演奏を聴いたゲーテは、絵画ならラファエロ、文学ならシェイクスピアに並ぶと後に回想しています。


パリへの旅、フルーティスト達との出会い


1777年10月、雇用先を探す旅の途中で立ち寄ったアウグスブルクでは、従姉妹のマリア・アンナ・テークラ・モーツァルトと再会し、恋に落ちます。

その後すぐにマンハイムで出会ったアロイジア・ウェーバーと恋に落ち、結婚しようとするが父に猛反対され、パリに旅立つよう指示されます。

この頃、出会ったマンハイム宮廷楽団の名フルーティスト、ヨハン・バプテスト・ヴェントリンクから、アマチュアフルーティストで裕福な医者だったフェルディナント・デゥジャンを紹介され、彼から4つのフルート四重奏と3つのフルート協奏曲の作曲依頼されています。

モーツァルトは父宛ての手紙に、不完全な楽器のために作曲することは苦痛だが、プロ意識を注いで作曲していることを記しています。

しかし、協奏曲は2つしか作曲されず、そのうちひとつは前年に作曲されたオーボエ協奏曲ハ長調をニ長調に移し替えた作品だった可能性があります。

そのため、報酬の半分近くしか受け取れなかったという愚痴が手紙に書かれています。


1778年2月にパリに向かって旅立ちます。

1778年、パリで家庭教師をしていたアマチュアフルーティスト、ド・ギーヌ公爵の娘の結婚式のために、フルートとハープのための協奏曲が作曲されます。

5月に父に宛てた手紙には、公爵の娘はハープを上手に演奏し200曲以上も暗譜で演奏できるなど、モーツァルトはその腕前を褒めます。

しかし後の7月9日の手紙には、娘が「根からばかで、なまけもの(von herzen dumm, und dann von herzen faul)」と手紙に書いています。

同年7月3日、同行していた母がパリで死去します。

7月31日の父あての手紙には、公爵がレッスンの報酬を半分しか支払われないこと、フルートとハープの協奏曲になんの報酬も支払われていないことが記されています。


ウイーンでの晩年


1781年、ウィーンに移住し、フリーランスの音楽家として生計を立てます。

1782年、コンスタンツェ・ウェーバー結婚。

1786年5月、『フィガロの結婚』初演しプラハで評判となります。

1787年5月、父レオポルドが他界します。10月にはプラハを訪問し、『ドン・ジョバンニ』をエステート劇場で初演します。

1790年1月、オペラ『コジ・ファン・トゥッテ』初演。

晩年は借金がかさみ貧困の中、死の直前まで作曲していた『レクイエム』を完成することなく、35歳という短い生涯を終えました。



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