セシル・シャミナードのフルート作品

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楽譜

Concertino pour Flûte, Op.107(コンチェルティーノ)


Sérénade aux étoiles, Op.142 (星のセレナーデ)


Air de ballet, Op.30 (舞曲、バレーの調べ)


Pastorale enfantine, Op.12 (子供のパストラーレ)


Orientale, Op.22 (オリエンタル) fl,hrp


経歴

 セシル・ルイーズ・ステファニー・シャミナード(1857年8月8日-1944年4月13日)はフランスのピアニスト、作曲家です。パリのブルジョワの家庭に生まれ、ピアニストであった母から音楽の手ほどきを受けます。

幼い頃から音楽の才能を示し、8歳の時にはジョルジュ・ビゼーの前で自作の演奏をしました。

ビゼーはシャミナードのことを「私の小さなモーツァルト(mom petit Mozart)」と呼び、音楽院で学ぶことを勧めますが、父親は中産階級の女性には向かないと断っています。しかし、最終的にはパリ音楽院でピアノをル・クーペ、作曲をバンジャマン・ゴダールに学んでいます。

18歳でデビューしてからはフランス各地で演奏し、1892年にはイギリスでツアーを行ないました。イギリスでの彼女の作品の評価は高く、ヴィクトリア女王からもイギリス訪問の際には毎回ウィンザーで滞在するよう招待されていました。

ベルギーの若きヴァイオリニストであったマルタン・ピエール・ジョセフ・マーシックが結成した弦楽四重奏団とプレイエルホールで行った演奏会では、高く評価されています。

1901年、マルセイユの出版社を経営していた10歳年上のルイ・マシュー・カルボネルと結婚しますが、1907年に夫はなくなります。高齢だった夫と同居しておらず、偽装結婚ではないかと疑われます。

1902年のパリ音楽院のコンクールのために作曲されたコンチェルティーノOp.107は、彼女の最も有名な作品となりました。

1908年11月、フィラデルフィア管弦楽団のピアノ協奏曲委嘱をきっかけに、アメリカを訪問し、彼女の崇拝者から熱烈な歓迎を受けました。当時、彼女の作品はアメリカで絶大な人気を誇り、スカーフダンスやバレエ音楽はアメリカのピアノ愛好家のレパートリーとなっていました。

1910年頃から降霊術やオカルトに熱中し、徐々に音楽活動がなおざりになります。

1911年にはフルートとピアノのための「星のセレナード」が作曲されています。

1913年、女性の作曲家として初めてレジオンドヌール勲章を授与されました。

57歳で引退し、ロンドンの病院経営を引き継ぎましたが、社会情勢の悪化とともにモンテカルロに隠居します。

以降、過度な菜食主義の影響で歩行困難となり、後に左足を失っています。

1944年、晩年はほとんど忘れ去られ、モンテカルロで亡くなりました。墓は後にパッシーの墓地に移されました。



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